Astro Japonica

楽しい 占星術ノート

月の光の行方

占星術でいう、月とは何なのか。こういう面もあるのでは、と思うところ。

月は過去の記憶の集積。「過去」とは、前世から物心つく前までのあいだ。それはおぼろげな感触が無意識に溶けだした、やわらかな記憶。比較するものもなく、善悪の基準もなく、物心ついてからも曖昧なまま、照らし合わされることもなく、そこに存在しているもの。

記憶と無意識とのまだらなグラデーションから、意識化されることなく自動的に引き出され反復される未整理な“気”。月はその人にとっての「世の中一般」も表し、つまりその人個人が「みんなだいたいこういうものだろう」と何となく思っている部分。それは実は子供の頃の環境によって、殆ど無自覚的に形成されている。

この「何となく」がおそらく曲者で、分別のつく前にそこにすでにあったものであり、そこに確たる理由はないため、これを意識することは難しい。「みんなだいたいこういうもの」の実態は、その人個人にとっての未整理の何となく、である。つまりここに無自覚であればあるほど、自分とちがう他人が許せなくなってしまう。

子供として過ごした世界と、大人になった今の世界とはちがう。月の発達年齢域は0才から7才まで。この時期は周りの大人の真似をして、世の中のことを少しずつ覚えていく。つまり月はコピー能力ともいわれる。月の光が届くのは、子供の世界まで、つまり子供のままで居てもいいプライベートな範囲まで。月が光っている夜の時間は、暗くて殆どのものがよく見えない。それは物心つく前であり、眠りにつき夢を見ている時であり、無意識の澱がたゆたう時間(時代)だ。

そんな月は、その人の1番やわらかい部分であるので、月単体で何かを切り開く力はない。実質・実情・実力・実際のところ・・・月は実がない、成果ではない。実のところどんなに気(月)が強くとも、気持ちの話で終わってしまう。まだ社会規範の育っていない子供の頃には、特にこの気の強さが力を持ちやすい。つまり月のセルフイメージが通用するのは、身内の範囲(共感もしくは同情してくれた人)まで。外の世界がはっきりと見渡せる昼の世界、つまり現実では月は太陽の光にかき消されてしまう。その大人の世界(太陽)をよそに、月は無自覚で自堕落で、それに気付かない限りただ同じことを繰り返す。だからこそ、月は「昼」の世界では、意識的に切り離して見ておく(=自覚する)必要がある。

例えば、性格は月、成果は太陽ともいえるかもしれない。月は意地で、太陽は意志である、とも。未知を切り開くのは、意地ではなく意志だ。既知に固執するのが意地であるから。月星座にまつわる「月にやさしく」的な話が多いけれど、強すぎる月が暴走し、身内(=月の光の届く範囲)に負担をかけている例をいくつか見た。月を自分で痛めつけるのももちろん良くないけど、無自覚に野放しで暴走させるのもどうなんだろうとも。

例えば「神は細部に宿る」というように、ほんのささいな瞬間に、その人となりが噴出する時がある。それで底が知れることもあるし、逆にその人の底知れなさを見ることもある。当たり前のように、本人はそこに何の感動もなく、さらっと親切にできる人がいる。なかなかできることではないのに、ごく何でもなさそうに。最初に意志をもってされたであろうそれは、繰り返すことでその人の月に蓄積され、そのやわらかな土台に大切なものとして刻まれたのだろう。

善悪も損得も客観的に判断できず、放っておけば闇雲に内包してしまうそこに、繰り返し意志をもって蓄積されたもの。太陽の光を反射し、地球の周りを旋回する月は、意志(太陽)が日常(地球)の中で落とし込まれた結果としての、結晶ともいえる(鉱物は月の代わりになり、月を安定させるともいわれる)。

気を張ることなく幾度も優しさや愛情を繰り返す月、そういう人の月はだからこそ美しいと思う。月はか弱くやわらかいこそ、とりつくろえず、自然の美しさで人を惹きつける部分でもあるからだ。